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2026年3月11日、東日本大震災から15年を迎えます。多くの町民が「念のため、数日だけ」のつもりで町を離れたあの日から、一つ一つ日常を取り戻すため町は、「町土の復興」と「町民の生活再建」を目指してきました。
この15年を町の出来事を中心に振り返ります。皆さんの心に浮かぶ「あの日」はいつでしょうか。
東日本大震災で町は震度6強の揺れに見舞われ、沿岸部の約2km2(へいほうキロメートル)が津波で浸水。地震と津波で町民12人が犠牲になりました。震災当時の人口は11,505人。
翌12日早朝から、震災に伴う原発事故で全町避難を開始。避難指示は同日中に町の全域におよびました。避難の長期化を見越し、町は4月、会津若松市に行政拠点を移しました。

津波により水につかった田んぼが広がる光景
全町避難は約8年におよび、2019年4月、町の一部で避難指示が解除されました。その後も避難指示解除は続きましたが、2026年3月現在も町の約半分が帰還困難区域のままです。2026年1月末現在、人口9,780人、うち町内居住者は1,086人。住民票を町に移していない人を含めると推定1,533人が町内で暮らしています。
震災による犠牲者の慰霊祭が、津波被害が甚大だった熊川地区で開かれました。町は全域が警戒区域に指定されており、参列者は防護服に身を包み、犠牲者の冥福を祈りました。
町内の津波被害者の捜索は震災翌日の3月12日早朝から予定されていましたが、避難で実施できず、その後、警察の捜索が始まったのは5月に入ってからでした。

祭壇に向かい、参列者が黙礼する熊川地区の慰霊祭
2026年1月1日現在、東日本大震災による死者は144人(直接死12人、震災関連死132人)、家屋被害は計3,371棟(全壊322棟、大規模半壊755棟、半壊2,257棟、一部損壊37棟)。関連死や家屋被害調査は続いており、震災に対する町の被害は確定していません。
毎年3月11日には、町民有志による追悼の集いが開かれています。
会津若松市に設置された松長近隣公園仮設住宅の一角に「おみせ屋さん」が開店しました。町の事業者が協同組合をつくり運営。初日には多くの町民がレジに並びました。
仮設住宅と市街地を結ぶ交通環境改善や入居者の減少などに伴い、2017年3月に閉店するまで、「おみせ屋さん」は町民の買い物や交流を支えました。

開店当日、多くの町民でにぎわう仮設住宅の「おみせ屋さん」
大川原地区の避難指示解除から間もない2019年6月、プレハブ店舗のコンビニエンスストアがオープン。2021年4月、同地区にコンビニや飲食など9店舗が集まる「おおくま―と」が開業。2025年3月にはJR大野駅西口エリアに「クマSUNテラス」が営業開始し、買い物の選択肢が広がりました。
2026年秋にはスーパーマーケットも開業予定です。
いわき市の好間工業団地第一仮設住宅で、夏祭りが開催されました。
町民向けのプレハブ型応急仮設住宅は2011年6月、会津若松市で入居が始まり、翌年12月末までに同市内に12カ所、いわき市内に7カ所が設置されました。避難の長期化に伴い、避難先での生活再建は進み、2020年8月までに全ての町民がプレハブ型の仮設住宅から退去しました。

目隠しした子どもがスイカめがけて棒を振る夏まつり会場の様子
町は、大川原地区に災害公営住宅計92戸、再生賃貸住宅計48戸、大野南エリアに同30戸、原エリアに同20戸を整備。いずれもほぼ満室の状況が続いています。2025年からは宅地分譲も進めています。
町は民間賃貸住宅のリフォームや新築に対する補助制度を整え、帰還や移住しやすい住環境整備に力を入れています。
大川原地区で先行除染が始まりました。除染に先立ち、2012年12月、町の警戒区域は帰還困難区域(面積の62%)、居住制限区域(同15%)、避難指示解除準備区域(同23%)に再編され、帰還困難区域を除く地域では日中の立ち入りが自由になりました。
除染や特例宿泊、準備宿泊を経て、中屋敷、大川原地区では2019年4月10日、避難指示が解除されました。

先行除染で表土の除去が行われている
2019年の避難指示解除に続き、2020年3月にJR大野駅周辺等で、2022年6月に帰還困難区域の一部(特定復興再生拠点区域)で避難指示が解除されました。
現在は、2020年代に希望する住民の帰還を果たすという国の方針の下、特定帰還居住区域が設定され、区域内の除染やインフラ整備が進められています。
大川原地区(居住制限区域)と下野上地区(帰還困難区域)に整備された実証田で、除染や放射線の影響を調べるためコメの試験作付けが始まりました。実証田ではその秋、町内で震災後初めての稲刈りも行われました。
大川原地区では営農再開に向け、2018年5月からコメの実証栽培開始。また、2020年からは帰還困難区域の下野上地区でも試験栽培が始まりました。

コメの試験作付けのため、田植え作業が進められる実証田
中屋敷地区と大川原地区では2022年4月に、下野上地区を含む特定復興再生拠点は2025年4月に営農が再開されました。水稲以外の畑作や果樹栽培も含め、町内では作付けされた農地が広がりつつあります。
2019年4月には、営農再開に先駆け、いちご栽培施設が稼働しています。
中間貯蔵施設建設地となった大熊東工業団地敷地内に除染廃棄物が初めて搬入されました。この日を起点とし、30年間にわたり、県内の除染で出た土壌等が中間貯蔵施設内に保管されます。
原発事故後、県内43市町村が除染を実施。その廃棄物の保管場所が中間貯蔵施設です。国による住民説明会などを経て、町は2014年12月、施設の受け入れを表明。町沿岸部の約11km2(へいほうキロメートル)が施設に含まれました。

トラックから吊り上げられ、敷地内に搬入される廃棄物
帰還困難区域を除く県内の除染廃棄物の搬入は2021年3月までにほぼ完了。国は2025年8月、除去土壌等の最終処分に向け、「2035年をめどに最終処分地を選定する」などと記載したロードマップを策定しました。町は期限内の最終処分の確実な履行や、その後の跡地利用の検討などを国に求めています。
会津若松市の町立大熊中学校仮設校舎で卒業式が行われました。地域の皆さんに見守られる中、卒業生3人が学び舎を巣立っていきました。
町立小・中学校と幼稚園は、震災直後の2011年4月、会津若松市内で教育を再開。会津大学短期大学部敷地内に新築されたプレハブの中学校仮設校舎は、2013年4月から8年にわたり、生徒の学びを支え、その役割を終えました。

仮設校舎を巣立つ3人を、拍手で見送る在校生と地域の皆さん
2022年4月、会津若松市で小中学校を統合した義務教育学校が開校。2023年4月には、義務教育学校に認定こども園も加えた「町立学び舎ゆめの森」が町内で教育活動を再開しました。同年6月に、大川原地区に新校舎も完成しました。
2026年2月現在、園児38人、児童生徒62人の計100人が在籍しています。
東日本大震災から15年。この間、犠牲になられた皆さまのご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の皆さまにお悔み申し上げます。また、日常生活の基盤を失うという想像を超えた被害から、一つひとつ生活を建て直してこられた町民の皆さまに心より敬意を表します。
この15年で心に残る「あの日」を問われれば、やはり2011年3月12日が浮かびます。当時、私は町の生涯学習課長でした。前日の地震から、避難所設営や非常用発電機などの物資調達に走り、夜が明けた午前6時ごろ、役場で避難指示を知りました。
同僚と2人、町内の集会所を回り、残った人がいないか確認しながらも、何が起きているのかピンと来ていなかったように思います。地震被災はありましたが、私は津波の被害を見ておらず、目の前にはいつもの町があるのです。火の手や洪水が迫っているわけでもない。切迫感を持てないまま町を離れ、避難先のテレビで原子炉の状況を確認し、徐々に事態の深刻さを理解していきました。
それから、あっという間の15年でした。町として「必ず帰還する」という方針を掲げながら、「本当に戻れるのか」と交錯した気持ちになったことは一度や二度ではありません。今、町内で約1,500人が生活する現状に「よくここまで来た」と感じています。
一方で、震災を経験した町民の多くは町外で生活しています。震災前を振り返る時、懐かしく思うのは、やはり人。かつての隣近所の人たちとは、たまに電話で話すことはあっても、行き会うことはほとんどありません。親戚もバラバラです。町の再建を進めながら、人のつながりをもう一度つくるのは難しいと実感しています。
震災前の町に戻すことはできません。しかし、大熊の良さを取り戻すことは大切だと思います。自然を感じながら、人とつながり、安心して暮らせたふるさと。将来の住民にもそんな大熊を残すため、過去を大切に、未来を見据え、復興に取り組んでまいります。
大熊町長 吉 田 淳